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こぼれる雫はゆうやみにとける 12 [こぼれる雫はゆうやみにとける]

 

思い返せば、道場にいるときは
ぼくはいつも彼女を見ていたし、
それを彼女も気づいていた。

彼女は悩み、ぼくは諦めた。

お互い
こころの片隅にはあっても重なることはなかった。
そして今の彼女はどうなんだろう。


ぼくは今、そこそこの幸せに包まれている。
とくに不満もない。


そんなぼくが
彼女に何を聞けばいい?
何を、どう伝えればいい?



信号が青に変わる。
若者がスマホを見ながら横断歩道を渡っていく。


彼女も、ぼくも、立ち止まったまま。
進めない。

お互いを
お互いの「あのとき」を見つめあったまま、
進めずにいる。



雨の匂いが強くなってきた。
エキストラたちは
もう二次会の居酒屋に着くころだろうか。

ぼくは彼女の肩に揺れる髪を見た。
ゆるく、彼女の動きに合わせて揺れる髪が、
ぼくをも揺らす。



ぼくは、彼女に何も聞かない。
ぼくは、彼女に何もしてあげられない。
そして、彼女もそれを知ってぼくに謝っている。

…ぼくが謝るべきできごとだったのに。
ぼくの一方的な、
唐突な行動で彼女は戸惑ったはずなのに。



動けずにいるぼくと彼女に、
また雨粒が降りてくる。
ぼくは左手に持っていた傘を開き、
彼女に差し掛ける。



「キス、していいですか」



ぼくは、今のぼくを伝える。
もう、彼女を抱きしめることはできない。
彼女もそれは望まない。


今、
ぼくは、
ここにいる彼女とキスをしたい。

それを、伝える。



「はい」

彼女が少し微笑む




青信号が瞬き
そして赤に変わる




傘を打つ雨の音がする。
ぼくの右手のなか、彼女の頬。

 
ぼくはそのまま
指先でそっと彼女の髪を遊んだ。









ぼくは…




こうして

ぼくの「あのとき」と
彼女の「あのとき」が
雨粒と一緒に
時の中、
夕闇にとけて消えていった











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