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こぼれる雫はゆうやみにとける 4 [こぼれる雫はゆうやみにとける]

 

ぼくが彼女に特別に惹かれた日
…彼女の言う「あのとき」は
それから季節がいくつか変わってからのことだ。
ぼくがひとつ昇段して、
それに合わせるかのように仕事も忙しくなり、
ますます彼女と会える機会がなくなっていたころだ。

 
久しぶりに早く仕事が終わり、
たまには早めに行ってみようかと稽古に出向いた日。
すでに駐車場には彼女の車があった。

その日はエキストラの登場が遅く、
年齢の行った大先輩方を除く若輩者はぼくだけで、
彼女の姿はみえなかった。
それをそれほど気にすることもなく、
ぼくは道着に着替えて射場へ向かおうとした。

そのとき、
隣の女子更衣室から、飛びだしてきた。
彼女が。
ぼくの目の前に。

彼女の後れ毛がゆれ
髪の香りがぼくの鼻腔をくすぐるのと、
彼女のからだがぼくの右側にぶつかるのは同時だった。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

驚きと申し訳なさを含んだ優しい声で
彼女がぼくだけに。

「あ、ええ、全然、大丈夫ですよ」

彼女はほっとした表情で
「ほんと、ごめんなさい、注意散漫。
お稽古、これからですか?」

ぼくには思いがけないチャンスだったはずだけど。
「ええ、これからです」
誰でもできる会話で終わった。

彼女はぼくの肩くらいの身長。
彼女の髪はやわらかく、いい香りがする。
ぼくは久しぶりにドキドキした。
ドキドキして
ドキドキして
それだけで収まらない気持ちがわきあがった。


その日、ぼくの稽古の成績は散々で。
なかなか現れないエキストラのせいで、
彼女だけにスポットライトが当たっているようで
どうしても意識してしまい。

大先輩たちが成績の振るわないぼくを
ちょっと意外そうな顔で見ていて
声をかけようかかけまいか窺っているのがわかった。

だけど、
そんなことより
ぼくの意識は完全に彼女に向いていて。
彼女が射場に立ちゆっくりと射形を整える姿をみて、
ああ、触れたい、
ぼくは今、彼女に触れたいんだ、
あの髪に触れてみたいんだ、
ドキドキの原因をそう分析した。


これじゃ、こんな気持ちをかかえたままじゃ
冷静に的に向かうことなんてできやしない。
今日は裏方に回ったほうがよさそうだな、
大先輩の矢取りに徹しよう、と
ユガケをはずし的場に向かった。


初夏の風の通り抜ける通路、
そこに、彼女の姿があった。


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